型とは何か
1:攻防技術の記憶法
型は、創り出された技の記憶法として、考え出されました。
日本武道は、一つの技が形として残されていますが、その副産物として形の順番を書いた伝書
が残されています。
唐手は中国武術の影響を受けているので、複数の技を型として練習する方法を採用したのでし
ょう。
これについては、友人が面白い例えを披露してくれましたので、使わせていただきます。
「単語をバラバラに覚えるよりも、歌のようにメロディーをつけて覚えた方が、効率が良いし忘れ
ない」ということでした。体で覚えてしまえば、伝書は不要ということになります。
2:伝承
型は記憶の延長線として、次の世代に伝承するためのものでもあります。
型を創作した人は、当然のことながら動作の意味を知っていますが、次の世代は一人型を見て
も技の意味を復元できない可能性があるので、一人型を復元するために、口伝をセットで残して
います。
首里手中興の祖、糸洲安恒先生も「意味を理解してから練習すべきである。また本当の使い方
は口伝多し」という趣旨を書かれた糸洲十訓を残されています。
型、分解及び口伝はセットになっているので、型だけを繰り返しても意味が復元できない場合が
あります。
これは逆に、技を盗まれないという知恵でもあると思われます。
また、型の分解には複数の応用変化が含まれますが、原型とされる攻防の技術を伝えなけれ
ば意味がありません。
従って、これらは師伝により後世に正しく伝えられていなければなりません。
3:鍛錬
型を何度も行うことによって、技の完成度を高め、また威力を増すようにしなければなりません。
その過程で、術(身体操作)が身に付いてきます。
数代に渡るうちにある程度、術の感覚が判ってくると、それが言語化され技から術が独立しま
す。
そうすると、上達過程を早めることに役に立ちます。
また、一人型で練習した技を使うためには、二人で練習する過程が必要です。
「唐手概説」には、松村宗棍が二人で練習していたとされる屋部憲通先生のインタビューが載せ
られています。
術は、この二人で行う組手において、間合い、タイミング、崩しなどと共にさらに磨きをかけること
になります。
表演型と臨闘型
私が久保田紹山先生に習った時に、型について「表演型」と「臨闘型」と分けて教わり
ました。
表演型とは見せる型であり、また技術を盗まれないように隠した型のことをいいます。
一般的に見られる型がそうだと思って良いと思います。
ただし、間違いということではなく、初心者が習うには表演型で形を整えるということ
で良いのだと思います。
臨闘型とは、隠し手を表に現した型で実際に使えるように復元した型をいい、 今まで
一般には公開されたことは無いと思います。
新垣清師範の本にも「自分自身が一人で練習するときは、古伝の形を自分用に変化させ
得る段階にある。これは正式には無想会の形でなく、生徒にも、そして誰にも見せるべき
ものではない。」 と書かれています。
演武会でやっている型だけをやっても使えるようにはなりません。
分解組手を習った段階で、それを使えるようにするための型なのです。型の練習とは演
武会でやるような型だけでなく、一つの型を色々な練習方法で使えるようにしていくの
です。
究源塾でやられている流れるような型などはその一例です。
※ 型と形:近では形をつかう流派が多くなっていますが、私は慣習として型を使いま
す。
改変された型だらけ
「型は変えてはいけないのか?」というと「お前は何を言っているんだ」と言う声が飛
んでくることでしょう。
しかし、首里手中興の祖糸洲安恒先生が、型を変えて伝えたとしたらどうだろうか。
実際に糸洲先生はピンアン(平安)の型の創作(初段〜五段)、ナイハンチ初段の改
変、ナイハンチ二段,三段の創作、四方クーシャンクーの創作、パッサイ小の創作、クー
シャンクー小の創作を行っています。
師の松村宗棍に教わったものが、武術として有効なものであったならば、なぜ変えた
り、新しい型を作る必要があったのでしょうか。
その変えたり、新しいものを作るときの基準は「使える型にするため」だったはずです。
最近は型試合などによって「様式美」の概念が入ってきていますので、別な意味で変化
していっているようです。流祖の型と違うのはそういうことだと思われます。
元の分解組手の意味がわからなければ、変えられても直すことはできません。
型を変えずに保存するには「型を保存」することではなく「分解を保存」することによ
ってなされるものだと思います。
そうすることによって、変化が最小限に防げます。
従って、分解が失伝してしまうと、型は勝手に変化していってしまうことになります。
平安の考察
私の考えは、平安の型は空手のエッセンスを集めた極意の型だと思っています。
平安の型について多くの方の認識は、「糸洲安恒先生が古伝の型を参考にして、体育
用に新しく作られた型」という言い伝えです。
近年では、平安の型は初心者用として扱われて、昇級審査ときに行われるだけのように
なり、黒帯を絞めると殆どやらない型となってしまっています。
糸洲安恒翁が、平安の型を作られたのは70歳くらいで、その時期は明治37年頃であ
ったと伝えられています。拳聖といわれた糸洲先生が晩年に作った型が、「危険な技を
抜いた体育用の型」なのでしょうか。唐手の全てを知り尽くした人が、後世に残る型を
作るに当たってどのような考えに立つのでしょうか。
私がその立場であれば、最高の内容のものを残そうとすると思います。
糸洲十訓は「空手をやれば強い兵士を作る」という意味のことが書かれています。
平安のネーミングについても、これだけ身に付ければ平和に安心して過ごせるというこ
とから、この名称がついたと言われています。
危険な技を省いたと言われていますが、久保田紹山先生より習った分解は極めて危険な
技法を含んでいます。
空手を公開し一般に普及させるためには、上達過程を意識した型の創造が必要となった
のだと思います。
初段、二段という表現は、示現流剣術で使われている段階的な呼称からきています。
糸洲十訓は、明治41年頃書かれ「毎日1〜2時間で3、4年すれば奥深いところまで
行く人もでてくる」という表現が使われています。
新しい時代に対応できるように技法を整理し、武器法にしか使えない部分などは省いて
いるようです。これは近代武道として先行している柔道を意識していると思われます。
多くの型を修得するよりも、習熟することにポイントがおかれている為なのでしょう。
特に平安初段は、身体操作の土台を作るのと基本理念を修得する上で、非常に重要な位
置づけとなっています。
平安の考察 その2
「高級型」という呼称があるそうですが、私の若い頃はそのような言い方をしていなか
ったと思います。「古伝の型」とか「古式の型」というような呼び方でした。
松濤館では「鉄騎」「平安」以外を「七つの型」という呼び方も使われていました。最
近は、他の古伝の型もやるようなので「七つの型」という呼び方は余りされないようで
す。
「高級型」の反対語は「低級型」なのでしょうか?
鉄騎(ナイハンチ)の型や平安(ピンアン)の型が高級型でないとすれば、「低級型」
なのでしょうか。
一般的には、糸洲安恒先生が最初中学校で採用したために、子供用とか初心者用と思わ
れているようです
平安の型の大部分は、古伝の型からの抜粋でありますので、古伝の型よりも短いだけで
技のレベルとしては同じはずです。
確かに平安にない幾つかの技法が古伝の型にはありますが、短い型=低級型、長い型=
高級型なのでしょうか。
久保田先生から習った平安の分解を見ると、古伝の型のエッセンスを集めたて「臨闘
型」に近づけた型なのかもしれません。 そのように考えると平安の型は「初心者用の
型」ではなくなります。
ただ、「実践型」であるために、その用法は一部の人にのみ伝えただけなのだと思われ
ます。
平安の考察 その3
素朴な疑問があります。
よく「月刊空手道」などで見る大正年間の「沖縄の小学校で行われている型の稽古の写
真」です。この写真を見て皆さんは何を思いますか。
第一に「前屈立ち下段払い」を行っているので、松濤館でいう平安初段の演武と思われ
ます。
また、他に「前屈立ち内受け」の写真もあります。
この写真は、他流で行われている平安とは違い、松濤館の平安そっくりではないですか。
よく船腰義珍先生が型を変えたといわれているけれども、船越先生が本土に来たときの
平安の写真は、その沖縄の小学校の写真とほぼ同じではないでしょうか。
逆に糸東流で行われている「猫足立ち鉄槌受け」とは明らかに違います。摩文仁賢和先生
の本では「糸洲先生の平安の型そのまま」と言う表現があります。だとしたら沖縄で既
に改変されていたのでしょうか。
ここからは金城裕先生の仮説でありますが、「平安は2種類あった」とするものです。
要するに「糸洲先生が自宅で教えた平安」と「学校で教えた平安」があったとすれば、
どちらも正しいことになります。船越先生のは「学校用の平安」で、摩文仁先生のは「自
宅用の平安」ということです。そうであれば本土にきた時点で、平安が2種類あってもお
かしくはありません。
また、糸洲安恒翁は古伝の型を改変したことでも有名です。
そうであるならば、「型を変える前の弟子」と「型を変えた後の弟子」では同じ糸洲門
下であっても型が違うことになります。
船越先生の初学の師は、安里安恒(あさとやすつね)先生といって松村宗棍先生の門下
で、糸洲先生の兄弟子にあたる方ですので、その型を継承していれば、糸洲翁の型とは
違う可能性があります。
もうひとつ、疑問があります。
前の考察でも触れましたが、「糸洲先生が体育として体操化した平安の型を作った」と
されている点です。
これが私はどうしても納得できないのです。
糸洲十訓では「軍人教育に最適」「3,4年で奥までいける人が出てくる」という趣旨
のことが書かれています。
要するに即戦力が養えるとしているのです。
私が久保田先生から口伝と共に習った平安の分解は、「体操」などではなく「シンプル
だけれど十分実用に耐えるもの」と認識しています。
糸洲先生は、ナイハンチも改変されていることがわかっています。これも「体育用」に変
えたから、実用にならないとされている意見もありますが、私の見解は逆で「実用とし
て使いやすく改良されているのではないか」と考えています。
例えば自分が新しく流派を興すときに、今まで習ったものを「体操化」して「使えない
ようにして」弟子に教えるでしょうか。
そうではなく、より使いやすく、より実用的にして、弟子に教えるのではないでしょう
か。
皆さんは、どう思われますか。
型の考察 その4
平安の型は元々「チャンナン」と呼ばれていたと摩文仁賢和先生の本「攻防拳法空手道
入門」に書かれています。
これは、型を創作したときと命名が同時でなかったことを示唆しています。
確かに、平安の技の構成を見ると、公相君、ジオン、パッサイなどの古伝の型からの抜
粋が見られますので、「切った張った」の繰り返しをしたものと思われます。
また、同著の中に「チャンナンと言われたときの型と平安では違いがある」と書かれて
いますので、本土に伝えられる前に、沖縄において伝える時期により伝承が違ったよう
です。
平安の考察 その5
平安の型が「チャンナン」と呼ばれていたことは、摩文仁賢和先生の本にも載っていま
したが、「空手研究」(榕樹書林)によると本部朝基先生も、糸洲安恒先生から「チャ
ンナン」を習っていたとされて、「平安とチャンナンが違うこと」に言及しています。
その時期も、本部先生が17〜25歳の間のようですので、明治3年生まれとすれば、
明治20年から28年の頃と推定され、平安の型が発表されたのは明治37年ですか
ら、原型としての「チャンナン」は相当前からあるもとの思われます。
平安の考察 その6
「糸洲安恒先生によって危険な技は除かれ、学校教育に合うように体育として再編され
た。」とするのが一般的な平安に対する認識ですが、果たしてそうなのでしょうか。
危険な技とは何か
一般的に危険な技というと、「目突き」「金的蹴り」が挙げられます。
多くの格闘技のルールで、必ず禁止が明文化されるものです。
では、それらの技が唐手から無くなったのでしょうか。
船越義珍先生や摩文仁賢和先生の著書をみると金的蹴り、二本貫手は記載されていま
す。
昭和8年に出版された拳法唐手の前蹴りの解釈は、金的蹴りというものです。
これらを見る限り、危険な技として金的蹴りを除いたというには無理があるように思い
ます。
金的蹴りを前蹴りに変えたとする説もあるようですが、前蹴りを背足の金的蹴りに変化
させるのは、誰にでもできることです。
また、上足底で下から蹴り上げる金的蹴りもありますので、根拠が薄いように思いま
す。
「上段突きを中段突きに変えた」とする説も、相手の手を引き込んで体勢を崩せば、頭
部が下がるので、中段突きを頭部に入れることは可能です。
中段突きを少し上げれば上段突きになるので、中段突きをしていれば危険な技が無くな
るというのも無理があるように思います。
「目突きを無くした」とする説も、無理があるように思えます。
私が習った手刀受けは、目突きとしての用法が伝わっています。
だとするならば、下段手刀受けを中段手刀受けにしたのは、護身的には威力を増してい
るのではないでしょうか。
体育とは何か
斬奸氏の投稿にもあるように、糸洲十訓(明治41年発表)の中に、「一人で十人を相
手に〜」、「軍人社会の一助に〜」というフレーズがあるように、現代の体育という概
念とは明らかに違い、武術として唐手を位置づけています。十訓の書かれた時期が、日
清戦争(明治27年〜明治28年)、日露戦争(明治37年〜明治38年)を経て、富国強兵の
機運が日増しに高まっていた時期です。
また、当時の沖縄県知事は、糸洲先生が学校採用の嘆願書を出した際、「唐手術の稽古
を通して得た心身が、それほど軍人としての自信につながるものであれば、その有効性
を率直に認め、県民子弟に奨励し、早速学校体育として採用するがよかろう。」と書き
添えています。
危険な技を除かなければ生き残れなかったのか。
明治になって、「唐手が生き残るためには、学校教育に組み込む必要があった」とする
説にも考察が必要だと思います。
結論からいうと、その必然性は低かったと思います。
過去、禁武政策のために、秘密裏で伝えてきた唐手の歴史を振り返れば、学校教育の場
でなくても伝えるノウハウはありました。
柔道は危険な技を形で残した。
良く知られるように、柔道は乱取からは危険な技を除きましたが、古伝の危険な技を形
として残しています。従って、明治の世になって危険な技を省かなければ存続できなか
ったとするのは、理解に苦しみます。柔道以外にも古流柔術は残っています。
当時は富国強兵の時代でありましたから、武術が生き残る余地は十分あったと推測され
ます。
空手の入門書に目突き、金的蹴りがあるのはなぜか
生き残るために危険な技を省いたのであれば、空手の入門書に、なぜ目突き、金的蹴り
があるのでしょうか。
糸洲先生の門下がで残されている著書をみても、例外なく金的蹴りは存在します。
小学校の普及の為に書かれたとされる空手道大観(仲宗根源和)でも金的蹴りは存在し
ます。
結局、危険な技を省いたということは無かったのではないでしょうか。
共通するのは、危険な技の排除ではなく、本来の用法は省かれていると思われます。
みなさんは、どう思いますか。
平安が創作された時代的背景
明治になって、武道を学校教育に組み込もうという動きは、本土において検討されてい
たという研究サイトを見つけました。これは、空手の場合に当てはめると、糸洲安恒先
生が沖縄の学校教育に組み込もうとした時期と合致します。
以下は、剣紫堂(http://www.namiashi.com/kenshido/)というナンバ(常足)の研究サ
イトに掲載されていた内容で、掲載の許可を頂きましたので、一部を引用します。
明治維新以降一時衰退した剣道も、明治十年代になり、学校でも剣道を始める気運が高
まってきた。民間からの武道の学校への採用についての請願運動を背景に、文部省は武
道が学校教育において適当であるか否かの調査研究を続けることとなる。
明治十六年、文部省は体操伝習所に調査を諮問した。
翌十七年の伝習所の結論は、その身体的・精神的価値は認めながらも、危険・粗暴・衛
生上不適であり、指導法上学校で行うには難があるという理由で正科とするには不適当
とした。
明治二十七・二十八年の日清戦争後になると、大日本武徳会の創立や講道館柔道の隆盛
などで、国民の尚武の意識は高まってきた。
明治二十九年、文部省は学校衛生顧問会に剣術および柔術の衛生上からみた利害損失に
ついて諮問した。これに対する答申は、先の伝習所の答申と同じく、武道を正科とする
ことについて否定したものであった。
明治三十七年に設置された体操遊戯取調委員会は三十七回にも及ぶ会合をもち、翌三
十八年に報告書を提出した。しかしながら、この報告でも、発育発達の見地と指導法の
研究不足を主な理由にして従来どおり正科編入は不可とした。
その後、剣道の正科編入の運動は議会でも続けられ、明治三十九年、「体育に関する
建議案」が提出され可決された。それでも文部省はすぐには実施に移さず、明治四十一
年に最終的建議案が可決されたが、武道は正科必修ではなく事実上随意科にすぎなかっ
た。
このように明治十年代から始まった武道の正科編入運動は三十年以上の年月をかけて実
を結ぶことになる。このように長い年月を要したのは用具・施設の不備、指導者の不足
などが考えられるが、最大の原因は教授法が確立していなかったことである。
明治四十一年、議会において武道の正科編入についての最終建議案が可決された。そ
の後、文部省も規則を改正し、明治四十四年、師範学校規程・中学校令施行規則を公布
した。これを機に、剣道は学校体育の正科として発展することになる。(以上引用終わ
り)
以上、見てきたように、本土において校教育に武道を取り入れることについて、30年
も掛けて研究してきています。注目すべきは、剣道及び柔道においてさえ、「教授法が
確立していなかった」ために採用が見送られてきているということです。
翻って、空手に目を向けてみると
明治34年 首里の小学校で唐手を指導する。
明治37年 平安の型を発表
明治38年 第一中学と師範学校で指導する。
明治41年 唐手心得十か条(糸洲十訓)を県庁へ提出
明治41年に糸洲安常が県庁に提出した糸洲十訓は、こうした背景の中で県庁の詰問に
対する回答として提出されています。当然、沖縄県庁は、これらの文部省の流れは把握
していただろうし、私塾である講道館柔道が隆盛をみるのも知っていたと思われます。
学校教育に合うように導入するために必要だったのは「指導法の確立」だったと上記サ
イトの研究論文には書かれています。新たに創作された平安の型は、初段から五段と上
達過程を踏まえた型となっているのが特徴です。
また、屋部憲通先生が軍事教練を参考に作ったとされる、礼法、準備体操なども、一連
の流れの中で必要に迫られて創られたのではないでしょうか。
また、糸洲十訓には、「用法を理解してから練習すべき」(意訳)と書かれています
が、同じ十訓の中に「口伝が多数ある」と書かれている点が興味を引きます。
これは、「表向きの用法」と「口伝が必要な用法」の2種類があるということになりま
す。
以上から、体育として危険な技は省いたとしている解釈が多いですが、危険な技は口伝
として残したと考えられないでしょうか。
要するに、型は二重構造となっていると考えられます。
鉄騎(ナイハンチ)の考察
元々「ナイハンチ」「ナイファンチ」と呼称されてきた型ですが、松濤館流では、船越
義珍先生が型の名称を中国語風呼称から日本語の呼称へと名称を変えたときに「騎馬立
ち」後に「鉄騎」という名称に変えられました。
首里手系の流派では、最初に習う基本型として位置付けられています。
山東省の漂流人禅南(チャンナン)が伝えた型という伝承があり、糸洲安恒翁が改良さ
れて現在のカタチになったようです。
また、2段、3段は糸洲翁の創作という説と、3つに分けたという説があるようです。
「昔はこの型ばかりを3年はやらされた」といわれています。
実戦の雄である本部朝基氏も「ナイハンチ」しか知らなかったといわれているくらいで
す。(実際には、少数の弟子にしか伝えなかった為の誤解ですが)
本部朝基氏の語録には「ナイファンチの形の足腰の在りかたが、唐手の基本である」ま
た「ナイファンチの形の左右、いずれかに捻ったものが実戦の立ち方で、ナイハンチの
形は左右いずれかに捻って考えた場合、いちいちの動作に含まれるいろいろな意味が判
ってくる」とかかれています。
久保田先生に習ったときも「正面に一人が原則」と言われて用法を示されました。
久保田先生は、摩文仁賢和師より「久保田さん、ナイハンチの原型を教えてあげよう」
といって教わったそうです。
この型を一言で現すのは難しいですが、完成された意外性があると思っています。
この型は横一文字の演武線であり、解釈が困難である型の代表でもあります。この演武線
に惑わされて、いままで面白い解釈がなされてきました。
曰く「塀を背にして闘う型」「一本橋の上で戦う型」「廊下のように狭い場所で戦う
型」などでした。
今考えれば、どれも笑ってしまうようなものばかりでしたが、実際の用法がわからない
ために「そんなものかな」と思った方も多いと思います。
ナイハンチの疑問点
ナイハンチの改変
摩文仁賢和先生の言伝えとして、糸洲安恒先生に「君のは、私が改変する前のナイハンチだ」
言われたとする説があります。これをもって糸洲先生が型を改変したとする説を良く見聞します
が、どれほどの改変だったのでしょうか。
摩文仁先生が糸洲先生に入門したのは、明治36年の14歳の頃となっていますので、糸洲先生
が学校教育に唐手を導入(明治34年)していた頃と重複しますので、学校教育用に改変された
のと違うと言うことだったのでしょうか。
空手研究(仲宗根源和)に載っている本部朝基先生のインタビューによると、松村宗棍先生と糸
洲安恒先生のナイハンチは違っていたという記述があります。内容は、鉤突きの部分が、松村
先生は斜め前に突きを出し、糸洲先生は肘を曲げて鉤突きとなっており、波返しの部分が松村
先生は静かに足を置いたが、糸洲先生は激しく踏み込んだとされています。
また、金城裕先生の著書である唐手大鑑には、金城先生(大正8年生まれ)より前の世代は、諸
手突きの鉤突きが開手で行われていたとされ、さらに、裏拳の添手が二本貫手であったとしてい
ます。
以上が現在わかっている改変箇所なのですが、改変というほどのものではないように思えます。
分解が伝わっていれば、それほど問題にならないようなことかもしれません。
もし、糸洲先生が大幅に変えたとするならば、他の系統のナイハンチと違うはずですが、泊手の
ナイハンチと最初に動く方向が左右逆なこと以外は、動作の差はそれほど認められません。
糸洲先生が二段三段を創作したのか。
また、糸洲先生がナイハンチの二段、三段を創作したとする説がありますが、他の系統に二段
三段があるところを見ると、この説にも疑問が残ります。
私見ですが、元々2段3段は有ったとする方が自然な解釈だと思います。
皆さんはどう思われますか。
なぜナイハンチ(鉄騎)を最初に習うのか
1:基本姿勢の習得
まず第一に基本姿勢を学ぶということです。
騎馬立ち(ナイハンチ立ち)で立ち、正しい姿勢を学びます。
身体の運用上として必要条件であり、これによって威力の養成ができます。
よく「両足の足刀で立つのか?」という誤解があるようですが、足刀で立てば自由に移
動ができないと思います。
この誤解の元は、ある本の解説に「馬に乗ったときの格好で両足を外に張り、足を内側
にしぼるようにして、足裏の外側(足刀)を内側に引き付ける」とありますので、「膝
を両側に張り、足刀で立つ」という誤解が生まれたのだと思います。
自分自身の恥を晒せば、私自身も中学生の頃に始めてこの型を習ったときにそう思って
いました。
立ち方は拇指球(親指の付根)で立ち、歩幅は「脛+2足幅以内」がよいでしょう。
その歩幅のまま、体を斜めにして前に体重をかければ「前屈立ち」、後ろへ体重をかけ
れば「後屈立ち」というように、立ち方の基本という位置にあります。
2:運足
横一文字の運足は鍛錬用であり、威力の養成に効果があります。
この運足については、新垣清師範の本に詳しく書かれていますので参考にされるとよい
と思います。
主に「威力の養成」と「関節蹴りの用法」を含んでいます。
3:威力の養成
この運足は、威力の養成としても重要です。
移動して騎馬立ちになった「とき」に「脱力」によって技を出すことによって、打撃の
強化がされます。
これは、後ほど「口伝」や「平安初段の臨闘型」として公開したいと思っています。
最初は形を整えるのが先ですので、技のひとつひとつに力をいれても構いません。
4:用法
接近戦の用法を学びます。首里手系は「遠間からの攻防」というステレオタイプの概念と
は違い、最初に習うのは接近戦の型なのです。
また、戦闘法の基本概念である「掴んで殴る蹴る」を学習するのにも良い教材となって
います。
斬奸氏よりの投稿文
よくまとまっていますので、参考桜資料とさせていただきます。
Re: 平安の考察その三投稿者:斬奸 - 2002/08/21(Wed)
一応歴史上の事実・・・ただこういうものを考える時、私もそうなりがちですが、単一
の流れとして考えるとたいていおかしな方向に行きますから、複雑な多数の流れが絡み
合っていると考えた方が良いと思います。
その中で、岩井虎伯著、<本部朝基と琉球カラテ>によれば、「(糸洲)安恒が県庁の
役人を説得し、首里の小学校の生徒達に、古式の型のエッセンスを抽出し、新たな型を
創作して平安の型として採用させ、力量に応じた五種類に分類した唐手術を体育として
指導をはじめるのは、明治34年のことになる。」と、あります。
また体育の定義について、「現代のスポーツ感覚でなく(中略)軍人教育の一貫との位
置を占めていたのである。」
そのまたソースは「糸洲十訓」
「唐手は体育の土台として小学校時代より(中略)
追々熟練いたし一人にて十人に勝つ輩も
沢山できるに可能と存知候事。(中略)
本県人民のみのためならず、
軍人社会の一助にも相成可申候(後略)」
ですから明文化したソースの最たるものは糸洲十訓と言って良いと思います。
そしてこのように中身を読めば軍人教育であって、今の感覚で言う体育とは根本的に異
なるものですが・・・
定義が変わっても言葉が一人歩きして生き残ると・・・
根本的に受ける印象も間違ったものになって行ってしまったと考えられます。
ちなみに十訓の書かれた時期は日清戦争〜日露戦争間で、富国強兵の機運が日増しに高
まっていた時期です。
また、当時の沖縄県知事は示現流免許皆伝者ですが、糸洲翁の師と剣術で同門であり、
そのこともあったにせよ、糸洲翁が学校採用の嘆願書を出した際、「唐手術の稽古を通
して得た心身が、それほど軍人としての自信につながるものであれば、その有効性を率
直に認め、県民子弟に奨励し、早速学校体育として採用するがよかろう。」と書き添え
ています。
従って平安は明らかに体育(軍人教育)用に創作したと、創作者自身が明文化して残し
ているわけですから、異論を唱える余地はありません。
しかし、その他の型については私は明文化した資料は知りません。
ただ、だいぶ昔の某世界大会型試合優勝者が、「コーチと相談しながら、審判受けを狙
って見栄え良くアレンジしました〜♪
技の意味ぃ?元々わかってませんからぁ♪いいんじゃないですかぁ♪」と、あっけらか
んと語るのを聞いて呆然とした記憶があります。
その他、いろんな主旨の改変があったと思います。
やはり、型は人間の動きで表現され、その人体がもともと、恒常的なものでも個体差が
無いものでもないのに、動きの外形を変えないようにするのは、無理なのだと思いま
す。
「型を変えるな」というのは、分解とセットでないと、これも全く違った意味に曲解さ
れてしまうと思いますね。
やはり言葉自体でなく、言葉の意味するところを理解する必要がありますね。
松濤館の横蹴りの考察
糸洲安恒先生が伝えた型には、基本的に横蹴りは含まれていません。
船腰義珍先生は、糸洲翁の型を改変したとされていますが、そのひとつに「横蹴り」が
上げられます。
この横蹴りは、松濤館流の看板技であり、型の大きな特徴となっています。
ブルース・リーによって一躍有名になった、サイドキックの原型かもしれませんね。
船越義珍先生が本土へ来たときの型は、既に横蹴りを含んでいました。
先生は明治元年生まれなので、本土へ来たときには50歳台半ばであり、ここから工夫
して足技を変化させたとは考えられません。横蹴りは、船越先生の若いときから存在し、
練習がされていたのだと思われます。
それでは、この横蹴りの出自はどこにあるのでしょうか。
私の考察では、船越先生は最初の唐手の師である安里安恒(あざとやすつね)先生より
伝授されたと思われます。
安里先生は、1827年生まれ1903年(明治36年)没で、松村宗棍先生の初期の
高弟です。
よく見られる伝承図では、安里安恒先生の弟子は船腰義珍先生しか書かれていません。
明治35年琉球新報に安里安恒氏が口述し、船越先生が筆記した「沖縄の武技」が掲載
されています。(空手道大学院参照)
http://homepage2.nifty.com/tsqr/karate/hist/azato/index1.htm
「目下の缺点」として足技について言及しています。
世には手の使い方を評して足の秘術を詮議する者が居ないのは甚だ遺憾に思う。
足は時に依っては手以上に利くことがある。所謂戦闘に於て、手と手を組み合う時
は必ず足であることを忘れてはならぬ。
とあります。
足技について、余程思い入れがあったのだと推察されます。
松濤館の横蹴りも、この安里安恒先生よりの伝授だとしたなら、糸洲先生系統の型と違
うことになります。
型は基本技を繋げたものか?
現代空手の型の見方は「基本技を繋げたものが形」という認識のようです。
本当にそうなのであれば、「使える形」となるわけですが、現実問題として「使えない
形」(使えない分解組手)となっています。
ここに矛盾があるわけです。現実から帰結する結論は「基本を繋げたものが形」ではな
いということです。
このサイトにおいて公開した師伝の分解組手では「複数の動作で技が構成されている」
ものを見ることができますし、「受けと称する動作」は必ずしも受けを表現していませ
ん。
このことは、口伝の「動作の名称はカモフラージュ」でも説明しました。
従って、型をばらして基本技を作ることはできても、その基本技を繋げたものは型では
有りません。別な言い方でいうと「部分の集合は全体ではなくて、部分の結合が全体で
ある」ともいえるでしょう。本来は型に含まれて入れる分解組手が明解であれば、「基
本を繋げたものが形」という認識にはならないと思います。
ただし、この事は現代の人に責任があるわけではなく、沖縄から本土にもたらした第一
世代の問題だからです。
松濤館の型の考察
さて、一般的に松濤館の型は、動作が改変されていると言われていますが、どこがどの
様に改変されているのでしょうか。ここでは「唐手拳法」という本と比較検討してみたい
と思います。
最近「唐手拳法(昭和8年、陸奥瑞穂)を手に入れました。
著者は、船越義珍先生に空手を習うもそれに満足せず、三木二三郎と共に昭和3年頃沖
縄へ行って、当時の糸洲門下の大家といわれる屋部憲通、花城長茂、大城朝怒、喜屋武
朝徳他の各先生から習ったとされています。従って、船越義珍先生と兄弟弟子であった先
生方に習ったということになります。
また、昭和5年に、沖縄でのインタビューを纏めた「拳法概説」を三木二三郎と共著で
出しています。東大空手部の師範を昭和8年〜11年まで務めた人で、後に衆議院に立候
補しようとして、東大空手部の名を勝手に使ったとして師範を解任されたようで、その
後の消息は不明となっています。
本の目次に目を通してみると、第二章として「攻防より観たる型法の個々の姿勢の意
味」として分解の一部が書かれています。その次に、「型法の編」として型が絵で説明さ
れています。
平安、ナイハンチ、パッサイ大、公相君大、ジッテ、セイシャン、ワンシュウ、ジオ
ン、チントウ、パッサイ小、公相君小、二十四、チンテイ、五十四歩と首里手としての
20種類の型が掲載されています。
平安初段(唐手拳法では平安二段です)
| 平安初段 |
松濤館 |
唐手拳法 |
| 用意 |
平行立ち |
閉塞立ち |
| 第4動作 |
猫足立ち |
前屈立ち
右手を左肩まであげる。 |
| 第4動作 |
鉄槌打ち |
裏拳を相手の顔面へ入れる。コー
スは横に振っている。 |
| 第6動作 |
前屈立ち下段払い |
前屈立ち下段払い
上体を前傾 |
| 第7動作 |
正面へ
左上段手刀揚受け |
正面へ左上段揚受け |
第7:正面へ左上段手刀揚受け → 正面へ左上段揚受け
松濤館は上段揚受けの後に手を開き手刀にするのですが、
その部分は上段揚受けのままです。
後はまったく同じですので、基本的に、同じ型であることがわかります。
改変というほどの差は無いと思います。
平安二段(唐手拳法では平安初段です)
| 平安二段 |
松濤館 |
唐手拳法 |
| 第3動作:第6動作 |
後屈立ち |
前屈立ち |
| 第8動作 |
横蹴り |
前蹴り(金的蹴り) |
| 第16動作と17動作の間 |
なし |
後方へ 左前屈立ち左内受け |
| 第16動作と17動作の間 |
なし |
後方へ 左前屈立ち右逆突き |
| 第23動作と24動作の間 |
なし |
後方へ 上段諸手突き(夫婦
手) |
| 第25動作:第28動作 |
前屈立ち
上段手刀受け |
なし |
第26動作と27動作の間
第29動作と用意の間 |
|
上段逆突き |
平安二段には、松濤館の大きな特徴である横蹴りがあります。
この部分は船腰義珍先生が明らかに変えたのでしょう。
16動作と17動作つまり、後方へ振り返ったときの手数と23動作(諸手受け)に続
く諸手突き、最後の上段揚受けの後の逆突きが省略されています。但し、私は最後の上段
揚受けをした後の逆突きは隠し手として教えられました。
それ以外は、松濤館の型と同じです。
平安三段
| 平安三段 |
松濤館 |
唐手拳法 |
| 第9動作 |
右貫手を斜め左下へ |
右貫手の掌を上へ向ける |
| 第10動作 |
騎馬立ち左鉄槌 |
前屈立ち、 |
| 第16、19、22動作 |
裏拳(上から回す) |
裏拳(横打ち) |
| 第23動作 |
右前屈立ち 右開手 |
なし |
立ち方も一箇所しか違わず、基本的に同じ型ということができると思います。
第九動作は、実験してみると松濤館の方が優れています。唐手拳法のやり方では抜けま
せん。
第23動作も松濤館の動作の方が、分解組手に近い動作となっています。
平安四段
| 平安四段 |
松濤館 |
唐手拳法 |
| 第8動作、第11動作 |
横蹴り |
前蹴り |
| 第25動作〜第27動作 |
後屈立ち+諸手受け |
前屈立ち+諸手受け |
大きく違うところは横蹴りですが、ほぼ同じ型ということができます。
平安五段
| 平安五段 |
松濤館 |
唐手拳法 |
第13動作 後方へ振返っ
て |
騎馬立ち、下段払い |
前屈立ち、下段払い |
| 第14動作 前方へ |
騎馬立ち、背刀受け |
前屈立ち、背刀受け |
| 第20動作 後方へ |
右前屈立ち、諸手受け |
なし |
| 第21動作 前方へ |
左後屈立ち 卍構え |
なし |
| 第25動作 前方へ |
右後屈立ち 卍構え |
なし |
中間動作を一動作としているため、手数は違いますがほぼ同じ型です。
パッサイ大
| パッサイ 大 |
松濤館 |
唐手拳法 |
| 第十八動作 |
前屈立ち 掛け手 |
前屈立ち 両手受け |
| 第二十七動作 |
前屈立ち
下段右手刀打ち |
後屈立ち
下段右手刀打ち |
| 第三十動作 |
騎馬立ち
右下段払い |
前屈立ち
右下段払い |
| 第三十一動作 |
騎馬立ち
背刀打ち |
前屈立ち
背刀打ち |
| 第四十五動作 |
右斜め前方へ
右後屈立ち
左手刀受け |
正面へ
右後屈立ち
左手刀受け |
| 第四十六動作 |
左前屈立ち
右斜め後方へ
右手刀受け |
左前屈立ち
右方へ
右手刀受け |
幾つか立ち方が違いますが、基本的な動作としては同じ型といえます。
他にも比較できる型はあるのですが、きりが無いのでこの辺でやめておきます。
結論から言えば、「昭和初期に沖縄で行われていた糸洲門下の型とそれほど変わってい
ない」ということが判りました。
よく某掲示板などで「松濤館の型は違う」と言われていましたが、それほどではないよ
うです。
確かに、ナイハンチ(鉄騎)で足を高く上げるなどの動作が見られますが、基本構成は
同じといえるでしょう。
陸奥瑞穂、三木二三郎らは大正15年から船越義珍先生に習うも、型稽古ばかりでは納
得がいかず、本場である沖縄へ直接行って
1:唐手とは何か
2:唐手の型の解釈はどうするのか
3:唐手の組手とはどうするのか
などを見聞することだったはずです。
昭和3年に沖縄を訪問し、大城朝怒、喜屋武朝徳、屋部憲通、花城長茂、城間真繁、知
花朝信など首里手を代表する先生方に習ったようですが、当初の目的は達成できなかっ
たようです。
「拳法概説」の後記に、金城裕先生が「沖縄の先生方は、本当のことを教えなかったよ
うだ」と感想を書かれています。
その根拠として、唐手の原則としての「糸洲十訓」や、型の理解としての「型が様式表
現である」ことを両名が理解していないことを揚げています。
やはり「型は教えても手は教えるな」ということだったようです。
型は教えても、手は教えるな
本当は教えられる。
「型は教えても、手は教えるな」という格言が残されています。
「手は教えるな」とは、逆の言い方をすれば「手は教えられる」ということであり、別
の言い方をすれば、「教えられるけれども、あえて教えない」ということになります。
この場合の「手」とは「用法や身体操作」のことであるのは、誰でも理解できることと
思います。
平安の型でさえ本来の用法及び身体操作が、口伝として存在します。なぜならば平安の
型は古伝の型の抜粋だからです。従って、分解を見ればどこまで教わったのかが、判る
ようになっています。
教えない理由とは
武術とは、本来殺傷技術であるので、誰でも教えて良いものではありません。
従って、人物を判断してから技術を教える必要があり、これについても、「空手は君子
の武道」と云う格言が残されています。この格言は、空手をやると君子になるのではな
く、君子しか空手を習うことができないということを意味しています。
また、私の師である久保田先生は、「師弟関係でないものには教えられない」と常々言
っていました。
武道家としての従来の考え方であれば、当然のことだと思います。
教えられる人とは
本土の武術であれば、「免許皆伝=教えられる人」ということになるので目安はつきま
す。
空手の場合は、秘密裏に稽古されてきたためか、免許や伝書に相当するものが存在しま
せんので、師より「教えてもよい」と言われるまでは、教えてはダメだったのではない
でしょうか。
また、沖縄ではナイハンチはA先生、パッサイはB先生と複数の先生に習う習慣があっ
たために、その辺が複雑なのかもしれません。
前後同時受けは可能か
型の分解において最も不可解なものは、卍構え、山構えなどの動作において、複数の敵
の攻撃を同時に受けるとする解釈があることです。仮面ライダーではあるまいに、なぜ
そのような分解が存在するのでしょうか。
「殺陣」と「実用」を履き違えているのと、本来の用法を見たことがないためであると
思われます。正面の敵を見ていても受けるのが難しいのが現実なのに、後方の敵を見な
いで受けることができるとは思えません。
実際にやってみると解りますが、2人が同時に攻撃してそれを同時に受けるには、殺陣
としての練習が必要です。さらに、仮に前後の敵を受けて、前方の敵に反撃しても、後
方の敵はやることがなくて待っていることになります。
実際問題としてその状況になったとすれば、その場所を移動すれば両方の攻撃を避ける
ことができます。危険な状況に身をおきながら、尚且つリスクを犯す必要はありませ
ん。
合理的な判断をすれば、初心者でも解ることです。
卍構えの様式化された型の動作を復元するには「相手は正面に一人」「前手は攻撃」な
どの口伝が必要です。
逆に、これらの型の分解ができないということは、失伝してしまったことを示している
と思います。
つづく
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