

演武会での久保田先生と私
先生のニーオンザベリーを掌底で防ぐも目の前に・・・
久保田紹山先生について
縁あって、船越義珍先生の高弟であった久保田紹山先生に習うことができました。
船越先生が遺言に書かれた事後を託した8人の内の一人だそうです。
久保田先生については、「空手と武術」1985年2月号、4月号5月号、6月号、7月号、「近代空手」
1986年2月号に特集記事が載っています。
| 昭和10年4月 |
東京商大(現一橋大学)に入学と同時に船越門下となる |
| 昭和16年 |
卒業のときに船越義珍先生より三段を授与される。
(当時は五段制) |
| 昭和19年 |
陸軍歩兵少尉時代、格闘術を部下に教えていた研究成果を船越氏に披露し、四段を
授与される。 |
| 昭和22年〜25年 |
中央大学、専修大学空手部を指導する。
この間に、母校一橋大学空手部を松濤館流に復元する。
昭和22年から十年間を「試合稽古」に専念する。
鹿島神流の国井善弥氏と知遇を得、同流継承の懇望を受けたが辞退する。 |
| 昭和26年 |
大坂に転勤。糸東流の摩文仁賢和先生より五段を許される。 |
| 昭和27年 |
船越先生を長とする空手指導団員として米軍航空体育指導官らに空手を指導する。
日本空手協会の設立を援助する。 |
| 昭和29年 |
東京体育館で初の紅白試合を公開される。
このとき紅組の主将として出場する。
講談社の少年クラブのグラビアに写真が載る。 |
| 昭和32年 |
名古屋に転勤。名古屋工業大学、愛知学院大学で指導する。 |
| 昭和46年 |
全日本空手道連盟から、技術顧問就任の勧奨があったが、自分の空手観と相違する
ため謝絶する。 |
| 昭和48年 |
空手道世界大会が武道館で開催されるに際し、大会相談役を受ける。 |
| 昭和60年 |
一橋大学空手道部師範として学生の指導に当たると共に、同部OB会「一空会」会員に
武道空手の指導を行う。 一空会会長。 |
| 平成3年 |
一空会会長を辞し、最高師範として後輩の指導にあたる。 |
| 平成6年 |
亡くなる |
型が使える!
最初に知り合ったときに見せていただいたのは平安初段でした。
空手の先生というのは知っていましたが、演武した型が平安初段だとは気が付きませんでした。
まるで太極拳のような動きだったので。。。
私 「先生、それは太極拳か何かですか」
先生「空手です」
私 「なんと言う型ですか」
先生「平安初段です」
私 「????。先生の流派はどこですか?」
先生「松濤館です。船越義珍の直門です」
私 「えぇぇぇえええええっ!
私も松濤館ですがどうしてそんなに違うのですか」
先生「君のは体操です」
私 「どうしてですか」
先生「型が組手に使えますか」
私 「いいえ、使えません」
先生「だから体操なんです」
私 「・・・」
「先生は型を使って組手ができますか」
先生「では、かかってらっしゃい」
私 (本当にいいのかなぁ、だいぶ高齢だけどぉ)
バッシ、グェ 「今のは○○の型の手です」
ドスッ、バタッ「今のは△△の型の手です」
「参りましたぁああああああ」
(うーイテテテ、どうなっとんじゃ、このじーさん)
てな初対面でした。
秘密協定
私も久保田先生に会うまで「型は役にたたない」と思っていました。
型は、本土に輸出するときに意図的に改変されているそうです。
以下、久保田先生が私に言われた内容です。
船越義珍先生らが沖縄から本土に空手を伝えるにあたって、沖縄の空手家の間で「秘密協
定」があったようです。
空手は大学を中心に発展してきましたが、久保田先生が大学でならった型解釈は今と殆ど同じ
でしたが、夜、船越先生のところで教えてくれるものは全く違ったそうです。
「なぜ、違うことを教えるのか」という問いかけに、船越先生は「本当は教えてはいけないん
だ。」ということを言われたそうです。
要するに、「型は使えないようにして本土の人に教える」という「秘密協定」があったために、一
般で教えるときには使えないように改変したものを教えていたと言うことです。
師は「松濤館の道場に掛かっていた”深淵微妙”という額の意味が船越先生の心中を表してい
るのではないかと思う」と言っていました。
船越義珍先生の古い写真と今の型は随分違います。
松濤館の改変の仕方も、動作を大きく見せるのが主であるように思えますので、あながち使え
ないものとは思いません。
現在の型も全く使えないのではなく、それを解く鍵(キーワード)があれば復元できるようになっ
ています。
ナイハンチの型解釈については、糸東流の摩文仁賢和先生に「久保田さん、ナイハンチの原
型を教えてあげよう」といって習われたそうです。そのお返しに、松濤館の横蹴り及びその防御
を教えたといっていました。
久保田先生の平安の型に対する解釈は、「最もコンパクトにまとまった空手」という認識でした。
その中でも平安初段を中心に据えていました。
確かに平安初段の第一動作(下段払)と第二動作(中段追い突き)が難しい課題です。多くの場
合初心者用として軽視されていると思います。
糸洲十訓(唐手心得十ヶ條)には毎日2時間で3年で奥深いところまで到達できると書かれてい
ます。これは私が研究していた武道技術上達論と一致していました。
先人はちゃんと残しているのでしょう。我々が知らないだけで。。。。
秘密協定の検証
当時、沖縄唐手界に組織的な動きがあったか。
大正7年に摩文仁賢和が世話人となって「唐手研究会」を発足させています。
このメンバーは屋部憲通、花城長茂、富名腰義珍、知花朝信、徳田安文、城間真繁、大城朝
怒、徳村正澄、石川逢行、宮城長順が参加しています。(敬称略)
船越先生は本土で教えるについて沖縄と連絡を取った形跡があるか。
富名腰先生が空手道一路に書いた「(大正11年)両先生に手紙を出して、本土で唐手を教える
ことについて相談した」というのは屋部憲通先生、花城長茂先生で、糸洲一門で富名腰先生の
先輩にあたります。富名腰先生の手紙の内容は、当然唐手研究会で討議されたはずです。
船越先生は、沖縄に相談する必然性があったか。
船越先生は、本土に唐手を教えに来たのではなく、唐手を紹介しに来ただけでした。
従って、本土で教えることについて、同門及び唐手研究会などに了解を得ようとするのは、当然
の行為であったと思います。
なぜならば、船越先生は、仮に教えたとしても、沖縄に帰郷する予定だったからです。
田舎の生活はどこも似たようなところがあり、コミュニティーの同意は必要です。
それを無視すると自分だけでなく、家族も浮きあがってしまう可能性があるからです。
まして、家族がまだ沖縄にいて、自分が帰郷する予定の中で、同門及び唐手研究会の意見は
無視できない立場にあったと推測されます。
沖縄唐手界の重鎮はその後どのような行動を取ったか。
昭和11年に沖縄唐手振興協会(上記の唐手研究会とほぼ同じメンバーで構成されている)によ
って制定された12本の型を見れば、当時の重鎮が唐手をどのように広めようとしているか理解
できるでしょう。突き蹴り受けのみ太極と同じ構成の型を広めようとしていたことからも推測がで
きると思います。普及用と自派用に分けて考えていたようです。
現在の本土空手は身体操作や形の分解が伝承されているか。
残念ながら、平安の分解すら納得のいくものが公開されていない状況です。
隠れ武士
月刊空手道(2005年10月号)の特集に「隠れ武士が語る沖縄空手と修行観」がありました。非常
に興味深く読ませていただきました。
名を伏せてと言う条件でA氏が、顔を隠したかたちで出ています。未だに沖縄では、この手の話
を公開することは、タブーであるのでしょう。
幾つか、目に付いたところをピックアップしてみます。
1:首里手でも近い間合いで戦えなければならない。
2:相手の衣服を掴むなど、相手を引きつけながら、突くことで威力が倍層する。これは相手を固
定し、打撃を効かせやすくする効果がある。
3:打撃を効かせる腰使い
4:硬いものばかりでなく、蚊帳などの軟らかく、手応えのないものを突き、当波を養う。
5:正しい姿勢と正中心を保ちながら、肩や腰、膝の向き、足首などが一致するように意識して突
く。
6:当てる部位によって、最大効果を発揮するように、握りも変えなければならない。
7:小指から握りこみ、突くように裏拳を行う。
8:姿勢が正しくなければ、チルが鍛ええられない。
9:呼吸を一致させることにより全身のチルが連動し、結果的に一つのなり、大きな力を出すこと
ができる。
10:鼻から吸う時に引き、吐く時に突く。
11:上級者となったら呼吸を隠す。
12:拳頭に全体重が乗るようにして打つ。
13:受けは受けにあらず。
14:自分の正中線を守るように肘打ちをするように受ければ、相手の攻撃を潰すことができる。
15:受けたらすぐに掴みへと変化させ、次の攻防へと移ることが大切。
16:ナイハンチの分解を用いて、相手の右腕を掴んで折り、取り押さえた。
17:今日よりも明日、明日より明後日と、自らを鍛え。
上記のものは、私のところと非常に似ています。
特に目を引くのが、ナイハンチの分解です。このA氏は、小林流系統と言ってます。
小林流のナイハンチの分解は、2005年1月号に掲載されましたが、この用法には、上記の隠
れ武士が語った「相手の右腕を掴んで折り」という分解は含まれていません。
内容的には、本土で一般に見られる分解と同じものです。
このことは、今でも「本当の用法は公開しない」というルールが存在しているのではないでしょう
か。
私の書籍で公開したナイハンチの分解には、「相手の右腕を掴んで折り」を実現できる用法が含
まれています。
この奇妙な一致は、何を意味しているのでしょうか。
久保田先生の教え方
久保田先生もご多分にもれず、昔気質の武道家でしたので、型の解釈については中々教えてく
れませんでした。教える代わりにいつも「この動作はどう解釈するのか?」と私に質問するのが
常で、私が答えられないでいると、ニヤニヤ笑いながら「また、宿題だね」と言って、そのまま帰さ
れました。
次に先生と会うときには、いろいろ考えた研究結果を見せて批評してもらいました。これも「それ
で、よし」と言われるまで、同じ宿題を出され閉口したものです。
それでも中々解答を出せないでいると、「かかってきなさい」といって組手が始まってしまうことも
ありました。先生が「かかってきなさい」って云ったって、「ここからどーやって攻撃すんだよ。」っ
て感じで、私の間合いとは倍くらいも違い、おまけに何をされるか予測がつかないので、怖くて近
寄れないという感じでした。
大体、以下のようなやり取りでした。
私 「それなんですか」
先生「OOの型だよ」
私 「え〜、ホントですか?」「どうやって使うんですか」「そんなもんほんとに使えるんですかぁ?」
先生「(ムカッ)それじゃ、かかってきなさい」
私 「おりゃー」・・・「ぎゃぁあああああ」
とか
先生「○○君、後ろ蹴ってるけど、後ろに敵は居ないよ」
私 「そんなこと言ったって先生の型だって後ろ蹴ってるじゃないですか」
先生「(ムカッ)敵は正面だ!!」(これだけ)
とか
先生「桧垣君。手刀受けは受けて終わると思うかね?」
私 「思いません」
先生「じゃぁなんだと思う?」
私 「わかりません」
先生「考えなさい!」
私 (えっ?教えてくれないの〜?)
そこで考えに考えて・・・稽古する姿を、久保田先生がにやにやと見ている・・・
「先生。こういうことでしょ?」
「そうだ」(でお終い)・・・というような教え方でした。
もっともたま〜にヒントはくれましたが・・・
しかし、自分がやられているので、客観的にどうやってやられているのなかなか判らない状態の
方が多かったですね。
教えてもらうと言うよりは、当時はただ痛いだけで閉口しましたが・・・
こう書くといかにも意地悪じいさんのようですが、鬼のような稽古が終わると、気さくに近くの焼鳥
屋でビールを飲みながら色々な話をしてくれました。今考えると、もっと良くメモしておけばよかっ
たと思うこともあったように思います。
最近になって思うのは、ただ教わるだけでなく、自分で分解する力をつけるという教育法だった
のだなぁと感じています。この方法であれば、自然と身に付き忘れることはないからです。
ただ、今の時代に久保田先生と同じことをしたら、一体何人がついて来られるのだろう。
久保田先生よりの伝言
久保田先生より兄弟子を通してメッセージがありました。
もちろん先生は亡っていますので、先生の書かれたB5板160ページほどの本のコピーが私の
手元に届けられました。先生が亡くなる3年位前に書かれた本で、非売品のために一般書店で
は手に入らないと思います。
序文は、現都知事の石原慎太郎氏が書かれています。
この本が書かれた頃は、私は地方に住んでいたためにその本のことは知りませんでした。
久しぶりに兄弟子に電話をかけたら、久保田先生書かれた物があるというので至急送ってもら
いました。
先生のことですから歯に衣着せぬ表現もありますので、読む人にとっては大変な文書になると
思います。
型についても詳しく書かれているのですが、臨闘型を念頭において書かれているおり、やはり肝
心なところは口伝となって書かれていませんので、教伝を受けていなければ読んでも理解ができ
ないと思われます。
競技空手しか知らない人が読めば、何のことだかまったく解からないでしょう。
殆どの部分は既に教伝を受けているものですが、新たに「宿題」を出されたように思える部分も
ありました。
また、「解らないのは、型の行じかたが足りない」ともはっきり書かれています。(^^;
「ああ、久保田先生らしいなぁ。また、ニヤニヤと笑ってるんだろうなぁ」と先生の顔が思い出され
ます。
組手は存在した
空手の歴史を語るときに、昔は型練習が主体であり組手は行われず「掛け試し」と呼ばれる「辻
切り試合」のようなものを行ったと言われています。
本当にそうだったのでしょうか。
私は違うと思っています。
武道の練習が、本当に一人型だけで完成するのだろうか。
いきなり、実戦を本当にしたのだろうか。
唐手をやる者は皆、掛け試しのような喧嘩をしていたのであろうか。唐手とは喧嘩と同じモノな
のだろうか。
よく考えてみると、おかしなことに気がつくはずです。
空手を始めた人が、道場で或いは自宅で「型及び巻き藁突き」だけの練習をし、数年経って自
信が付いたといって、新宿や渋谷や池袋あたりで、強そうな奴を見つけて「掛け試しという喧嘩を
売るのが空手だ」としたら皆さんはどう思われるでしょうか。
はっきり言って、そんな馬鹿な奴は一人もいないでしょう。
第一に、型は様式化されているので実際の分解組手をやってみないと、外観からは意味が汲み
取れない動作が多くあります。
ナイハンチなどは正しくそのような型の代表でしょう。
第二に、例えばナイハンチを3〜5年やったからといって、果たして実戦の自信がつくものなので
しょうか。
第三に、「掛け試し」とはもちろん師に内緒で行うのですから、真面目に師の言われるように、型
だけやっていたら武道として完成しないことになるのではないでしょうか。
疑問に思うことばかりです。
これらは、事実とは違うと思われます。
それを示す幾つかの状況証拠を示してみましょう。
第一:明治38年に糸洲門下の花城長茂氏が「空手組手」という手書きの本を書かれています。
第二:1867年の冊封使の祝賀会において、徒手及び武器法において2人での組形が演武されて
います。
第三:首里手の祖松村宗棍氏が示現流剣術の皆伝の腕前なら、当然剣術の組形を知っている
ことでしょう。
第四:泊手中興の祖といわれた松茂良興作氏は、師より変手(組手)を教わったといわれていま
す。
第五:糸洲先生が平安の型を作るときの、相手役は花城長茂氏と言われています。最初から分
解組手が存在していると思われます。
第六:首里手や那覇手の基になった中国武術は、2人で練習する方法が存在します。
第七:剛柔流や上地流には「掛け手」に代表されるように2人練習の方法が伝えられています。
第八:剛柔流開祖宮城長順先生の若い頃の組手をやっている写真、また、弟子に組手を指導し
ている写真があります。
第九:喜屋武朝徳先生の写真も、弟子が向かい合って構えている写真があります。
第十:久保田先生が、船越義珍先生と組手をしたときの経験談を聞いています。
まだまだ、揚げられると思いますが、これだけでも状況証拠としては十分だと思われます。
これらの状況証拠からいえることは、組手が存在したことを物語っています。
しかし、船腰義珍先生の「空手道一路」などを読む限りにおいては、組手をしたとは一切書かれ
ていません。 むしろ型練習だけをことさら強調して書かれています。
久保田先生から聞かされている「秘密協定」のためにその部分は書かれなかったのだと思いま
す。
さらに、だめ押しの状況証拠として、平安の型に代表される「従来言われてきた分解」が流派を
問わず同じようなのはどういう訳でしょう。これは「秘密協定」の状況証拠だと思われます。
これらは皆、「隠されていた空手」の痕跡ではないでしょうか。
皆さんはどう思われますか。
組手は存在した その2
沖縄唐手において、組手は存在したようであります。
しかし、本土において普及するときに意図的に隠された部分であることは、このHPにおいて何
度か触れてきました。
前項に引き続き、その検証をしてみたいと思います。
本土において、初めて組手を公開したのは本部朝基先生ですが、その著書「私の唐手術」の中
に「組手」の項目があります。
趣旨は、沖縄拳法唐手には「基本(型)」と「組手」があると書かれています。
ただ、その組手には定まったものは無いが、一通り基本(型)を習得したものが、お互いに「受
け外し」を試みて稽古することができるとなっています。
要するに、型を分解して二人で行う「約束組手」は存在していたのです。
また、師伝に係わり無く「組手」という一般名称が沖縄に存在することがその証明を裏付けてい
ると思います。
船越義珍先生は、型は教えても本来の分解組手は教えず、その替わりに「秘密協定で申し合わ
された分解組手」や基本動作の組み合わせである「三本組手」や「一本組手」を創り、その代わ
りとしていた節があるように思われます。
私が、このHPで公開している分解組の中に「空手道大観」(昭和13年発行)の城間真繁先生
(糸洲門下)の写真とそっくりなものがあることを発見し驚きました。
私としては「やっぱりそうか♪」という感激に近い気持ちであります。
その動作は、今まで一般には分解組手として公開されていないようです。
これらの写真が示す通り、船越義珍先生の同門では型の分解組手が練習されています。
組手は存在した その3
「拳法概説(昭和5年)三木二三郎、高田瑞穂編著」の中に「琉球に於ける大家並びに専門家」と
題して、当時の大家といわれる先生達にインタビューした内容が記されています。
その中でも、組手に関することとして目を引くのが、以下の内容です。
屋部憲通先生 首里市山川町
現在は師範学校に於いてご指導されているが、十有余年の滞米中は米国各地の講習会に於い
て琉球拳法の講演に努められるとともに、其の真威力を証明するため試合受諾の意思あること
をご発表された由である。
先生の真剣なる態度は米国人間に多数の唐手研究者を生じた。
本部朝基先生とご親交深く供に長年月ご研究せられたが、主眼を実戦に置かれた由である。
青年の頃は度々実際の試合をなされると共に、時々所謂「道場破り」に出かけになられた由で
ある。
先生の練習方法は三四回型を反復すると松村先生−屋部先生の師範−を相手として真剣の練
習試合−何等の防具を用いずに−せられたそうである。
攻防方法に関しては特に有益なお話を承った。
-------------<< 以上 抜粋 >>----
屋部憲通先生は、糸洲安恒先生の弟子として知られていますが、最初は松村宗棍先生の弟子
であり、糸洲先生とは兄弟弟子でもあったようです。
しかし、・・・・三四回型を反復するって、三十四回じゃないようだし・・・
どんな組手だったんだろう。
因みに、屋部先生が、防具を付けた三木氏らと組手をしている写真が残っているということは、
組手の指導もされたのだと思います。
もう一人の目撃者
BBSの投稿より : 一暇人さんの投稿から抜粋
双辺太極拳の教室を持っていたという猫だニャンさんというハンドルの方が、船越先生に教わっ
たという年輩の生徒さんから聞いたエピソードが入ってますので紹介しておきます。
969名前:猫だニャン投稿日:02/07/17 18:15 ID:+21JQRnc
堅苦しい話が続いてもナンなので、秘話公開してみるテスト。
いつぞや笠尾先生の空手の大先輩が私に双辺太極拳を習った話をしたよね。
その方、私の祖父といってもいいぐらいご年配だったんだけど、
私が双辺の武打を見せたときに目を輝かせて、
翁「猫先生は船越義珍先生をご存知ですか?」
猫「松濤さんのことですよね。」
翁「はい。実は私は船越先生に空手を習ったんですけど、
船越先生がご自宅でなさるものは、外で教えているのと
まるでちがって、ちょうど今見せていただいた猫先生の
太極拳のようだったんですよ。」
猫「?<この御爺さんボケ始まったかしらん>あのぉ、本土に空手を伝えた、あの、船越義珍先
生の、『空手』の話ですよね?」
翁「ええ、それはもう、優雅華麗な柔らかい動きで…(涙)」
猫「…。」
ということがありました。桧垣さんの久保田先生のエピソードを読んで、このご老人と全く同じもの
を御覧になったのではないかと思いました。
ーーーーーーーー< 投稿終わり >ーーーーーーーーーー
上記の投稿は、隠された空手のもう一人の目撃者のようです。
船越先生の空手は自宅と他で教えるものが違っていた証言です。
この投稿の後、猫だニャンさんに連絡をとり、十数年前のそのご老人を探してもらっています。
もし、会うことができれば師伝の臨闘型を見てもらい、船越先生と同じものか確かめたいと思っ
ています。
空手道一路の謎
船越義珍先生が、型の用法について「明確に答えられなかった」という話が武闘伝(加来耕三)
に書かれています。これらの話をまともに受けてしまっている人も多いようですが、本当に知らな
かったのではなく、不特定多数に教えることが出来なかったとすれば説明がつきます。
船越義珍先生は、明治元年生まれで、大正11年に本土へ来たときには50台半ばでした。
10代初めから唐手を修行しているとなると、本土に来た時点で修行暦40年ということになりま
す。
松村宗棍翁の高弟で、当時を代表する安里安恒先生、糸洲安恒先生に付いて修行をした船越
先生が、型の用法をまったく知らないということがあるのでしょうか。師の糸洲翁は、「型の意味
を理解してから稽古すること」「型には口伝がある」ということを明治41年に県へ提出した文書
唐手十訓に現しています。
船越先生は、本土に来る前には沖縄での唐手の普及の為に公開演武を行っていますし、欧州
より帰途であった皇太子(後の昭和天皇)に唐手演武を披露しています。 その時の集合写真で
は、棒を持っているものもあり、棒術の演武も行われたこと伺えます。
他にも大勢の使い手がいた当時としては、型の説明すらできないレベルであったならば、そのよ
うな演武会を開くことは不可能であったと思われます。
また、沖縄県庁が沖縄を代表して、本土に唐手の紹介をさせにいくでしょうか。
船越先生は、大正11年の公開演武の後、嘉納治五郎先生の要請により講道館で演武をし、船
越先生が「公相君」、儀間氏が「ナイハンチ」を演武して、「約束組手」も十数本公開しています。
その後、講道館において高段者に2、3ヶ月の指導をしています。余談ですが、講道館では昭和
2年に「攻防体育の形」として唐手の突き蹴りを柔道の中に制定しています。
これらの経験から船越先生は、本土で唐手を教授することを思いつきます。既に、沖縄の小学
校や自宅にて唐手を教えていた船越先生にとって、同じように教えようと思っていたに違いあり
ません。
このとき、郷土へ手紙を書いて、本土で教えることについて意見を求めています。
ここに大きな疑問点があります。
船越先生の著書である空手道一路(昭和31年)で不思議な点は、大正11年には先生の糸洲
安恒先生(大正4年没)や安里安恒先生(明治37年没)は、既に亡くなっているにもかかわらず
「両先生に手紙を出して、本土で唐手を教えることについて相談した」とされている点です。
本人の思い違いなのかどうかは解りませんが、誰かに相談をしたのは確かなようです。お二人
の師が亡くなっている以上、相談するのは同門の先輩かと思いますが、おそらく屋部憲通氏や
花城長茂氏などに相談されたのだと思います。
この部分だけ、ぼかされて書かれているように思え、私は文脈から非常に不自然なものを感じ
ました。
船越先生の本土普及の話は突然のことだったので、何処まで教えてよいかという範囲は、決め
られていなかったのだと思われます。夜陰に隠れるようにして稽古していた唐手が、沖縄でさえ
一般に公開されてから日が浅く、小学校や中学校で平安の型が採用されて20年しか経ってい
ない頃の話です。
「型は教えても手は教えるな」というところに落ち着いたのだと思います。
当時の沖縄唐手界の重鎮が、普及に際してどのようなレベルを考えていたのかという参考資料
として、昭和11年に沖縄唐手振興協会によって制定された12本の型の構成がそれを表してい
ると思います。現在でいうならば、太極の型とほぼ同じような構成の型なのです。
武道空手攻究について
久保田先生が晩年に書かれたこの著書は、非売品であるので一般書店では入手できません。
配られたのは、原則的に一空会の会員のみです。
この本を読まれた方の感想は、「内容がわからない」というのが一般的な感想です。
なぜならこの本は、秘伝書の形式でもって書かれているからです。
その証拠に、序文の中に「相伝」について書かれており、また、いたるところに「口伝」「実技にて
指導」と書かれ、肝心なところは伏せられています。
要するに、習った人にしか理解できないように書かれているのです。
分解も書かれていますが、一般人には解読不可能だと思われます。
なぜなら、臨闘型を念頭に書かれているためと、挙動と分解の結びつきがなく、型のどの部分の
解釈なのかまったく検討がつかないようになっているからです。
私の体験で似たようなものは、以前にもBBSに書いた記憶がありますが、私が習った大東流で
は、昇段時に、先生一人と弟子4人で合宿します。その時に伝書を渡されますが、その伝書は
意図的に間違って記述されています。実技を受けるときに、先生が「その箇所は、左手と書いて
あるが、右手に読み替えるように」と指導を受けます。そして、弟子は正誤表を自分のノートに書
きます。
これは、伝書を盗まれても技が復元できないようにとの配慮だそうです。
従って、習った人は伝書に書かれている内容がわかりますが、直接習っていない人には無用の
長物でしかありません。
武道空手攻究は、それと似た形式を取っています。
生前によく、「書いたものは信用するな」と言われていました。当時は何のことか分かりませんで
したが、武道空手攻究を読んで、先生の真意が解かりました。本当に必要なのは実伝でしかで
きないと言いたかったのだと思います。
序文の抜粋
私が生涯学習として研究している「古武道」は、具体的には次の三つになります。
一つは、今やスポーツ格闘技柔道の「源流の柔術」のうち、最右翼の「大東流柔術」でありま
す。
二つには、徳川幕府の「将軍の剣」であった江戸・柳生新陰流の剣術であります。
三つには、私が昭和十年から入門師事していた、富名腰義珍師の「空手」であります。
以上の三つがドッキングしてできあがった「綜合武術」が、今の私の武道の姿であります。
この文書でもって「大東流との合成技なのか」と、疑問を持たれる方もいるかとは思いますが、よ
く読むと、融合したとは書かれていません。
武芸十八般のように、別のものを三つ習ったというだけです。
「三つをドッキングしてできあがったのが、私の武道空手」と書いてあれば融合したと読めます
が、「私の武道」と書かれていますので違います。
「武道」というのは、空手、柔道、剣道他の総称として使われ、武道という技術体系があるわけで
はありません。この世界に、少しでも足を踏み入れられたことがある人ならば、ご理解いただけ
ると思います。
また、現実的な判断として、久保田先生と一緒に、大東流と新陰流を修行した誰もが、久保田先
生の空手の投げ技や逆技をみて、「あれは合気道や大東流である」と見る人はいません。
結びより抜粋
空手は武道的正確からみて、剣道と同一部類に属すると考えています。従って、剣道の理合い
は武道空手にとっても妥当するものと考えています。
剣の理合と空手の技法については、2005年11月23日発売のJKFANの特集にて、レポートし
ましたので、そちらを参照してください。
昔の教え方
「武道空手攻究」の第3の技の中に以下のように書かれています。
沖縄の昔時「先生は青竹を握り潰して見せた」とか「天井の桟を掴んで渡った」とか言う話が物
の本に書かれているのにお目にかかった人もあると思う。
私も学生時代にそんな記事を見て「すいぶん握力の強いことだ」と驚いた記憶がある。
そして爾来十数年間、「私には関係のないこと」と思い、忘れ去ってきた。
ところが、「格闘術から武術へ」の脱皮ということに私の注意が向き出した昭和三十二年の春頃
に、ハッとしたのである。
それは、空手は突き蹴りが全部ではない。必ず「掴み技」「捕り技」が極秘裡に伝承されていた
はずである。
そうでなければ、沖縄の名手が「青竹を握り潰した」というような逸話が伝えられるはずはない
と、独り思うようになったのである。
この時分から、私の「形を洗い直す作業」が始まったのであり、この時を境に、いわば、「蛹から
蝶へ」の転身となったのである。
これをもって、久保田先生の「創作」とする掲示板の文書を見ました。
残念ながら、短絡的な解釈をしているようです。
空手雑誌「空手と武術」(1985年4月号)には、「隠されていた空手」と題して、以下の記述があり
ます。
富名腰師が一本組手の時に必ず見せた応じ技に、攻撃する相手の手首を掴んで、極めていた
技をみたことがあります。
(中略)
ある日、摩文仁師から「久保田さんナイファンチの原型を教えてあげましょう」といわれたことが
ありました。その時、私はナイファンチの原型をありがたく教わっただけですが
(中略)
このように、私自身、空手の素顔を見る機会は早くからあったわけですが、私にこのことを受け
入れるだけの下地が熟していなかったため、このことの現実に気がついたのは、昭和32年でし
た。
と書かれています。
ここで問題なのは、「教える」という単語の解釈の違いなのです。
「昔の教え方」と「今の教え方」では、その方法はまったく違います。
「技術は盗むものだ」と言われることがあります。
これは、昔から武道に限らず、職人の世界でも同じことが言われます。
久保田先生も書かれているように、その時は大して重要に思わなくても、後年になって気がつく
ことがあります。
要するに、教えられているのに、教えられていることに気がつかないのです。
稽古を積むに従って、師が教えられたことに気がつくことがあります。
久保田先生が書かれたのは、正しくそのようなことなのです。
師の示したことを、稽古で再現できるようにするのが、稽古ということなのです。
私の場合も同じでした。
例を挙げれば、久保田先生がたった一度見せた技を、その後何年も掛けて稽古し再現しまし
た。
このような教え方は、現代の「教える」という言葉の概念とはまったく違います。
従って、現代の「教える」という概念で、久保田先生の著書を読むと、創作したという勘違いを起
こしてしまいます。
これと似た教え方を、月刊空手道の泊手の渡嘉敷先生の記事で見ました。
昔は、そのような教え方が普通だったのでしょう。
久保田伝の分解は、大東流合気柔術の影響を受けているか?
私の紹介する分解に、投げ技や逆技が多いのと、久保田先生と私の修行暦に大東流が含まれ
ているので、大東流の技術をパクったと思われる方もいるようです。
そこで、ここでまとめて説明をしておきます。
私の体験
私は父から合気道の手解きを受けました。私が空手を習い始めて暫く経って、父が「空手を見
せてみろ」といったので、空手の動きをいくつかやってみせると、父が「突いてみろ」というので、
突いてみました。ただし、今まで散々、合気の技でやられてきた経験から、父に捕まれないよう
に十分にスピードを乗せて、且つ、素早く引き手を取りました。しかし、結果は、凄い勢いで投げ
られました。
どうして投げられたのか、後で説明されました。
しかし、その技は今から考えると、父の技は、基本技の応用としては有りですが、合気道の教本
には載っていません。逆に空手の型の動作に存在します。
このことを、どのように捉えたらいいのでしょうか。
どちらかが、パクったのでしょうか。
人間のやることですから、似通った技がまったく別の場所に発生しても不思議ではありません。
それを、無理に関連づけると、「釈迦が日本武道をやっていた」というような話と同じになってしま
うと思います。
掴み手、崩しについて
琉球拳法唐手術(大正11年)、錬胆護身唐手術(大正14年)、空手道教範(船越義珍著、昭和10
年発行)の中に、明確に「これは掛手の変化で、相手の拳を受けるや否やこれを掴み引き寄せ
ながら攻撃するのである。相手を引くという事は敵の技を封じ、体勢を崩し、且つ我が拳の威力
も強大となるので、最も大切なことである。単に引くよりも逆に捻りながら引けば一層効果が多
い」と書かれています。
「掴み」や「崩し」は、船越先生自身が著書の中で説明されていますので、これを合気道のパクリ
とする人はいないでしょう。
公開は空手が先
唐手の投げ技や逆技についての書籍上での公開は、大正11年の琉球拳法唐手術(船越義珍
著)が最初です。
私の本に、出版社の許可を頂いて転載した「ナイハンチ初段の変手」の写真は、大正14年のも
のですが、11年のものと同じです。
この写真は、合気道でいう一か条に該当します。
では、この一カ条に該当する技を合気道側は、いつ頃公開したのでしょうか。
昭和8年に、植芝盛平先生の「武道練習」が、写真入りで発行されたのが最初です。
この事実をもって、合気道の一カ条は、空手の本からパクったとはならないでしょう。
大学のクラブ活動の普及も、空手は戦前から存在するのに対し、合気道は戦後になってからで
す。
他流の場合
以前、月刊空手道に、湖城流の特集が組まれました。
先代まで一子相伝を守り、未だに、型の公開もしていない流派です。
その湖城流の「突き蹴り」と「投げ技逆技」の割合は、5対5であると書かれていました。
元々、唐手は総合武術ですので、投げや逆があっても不思議ではありませんが、一般の人が想
像している以上に、その比重は多いのだと思います。
時事系列
私が久保田先生に習いはじめたのは、久保田先生が大東流に入門直後ですので、影響を受け
る時間もないと思っています。
また、空手と合気道を習うと分解が解けるのかというと、そのように両方習った人は他もにいる
でしょうが、未だに、分解が解けたとする発表はありません。
私の経験上、空手と合気道を習っただけでは、分解は解けないと思います。
今まで、ナイハンチ初段の指導を何人かにしましたが、「こんなの教えられなければ、絶対わか
らない」とする意見で一致しています。私自身もそのように思います。
今まで、船越先生の「ナイハンチ初段の変手」の写真をみて、誰も解けませんでした。
分解を習って知っているものだけが、あの写真を見て、「あー、ナイハンチのこの部分の分解だ」
とわかるだけなのです。
また、武道空手攻究が出版されたのは平成4年末です。
私が、久保田先生に空手を習っていた時期は、昭和50年代後半であり、10数年も時間的に隔た
りがあります。更に、新陰流の教伝は、もっと後になってからとなります。
昭和48年の文書と武道空手攻究との比較
久保田先生が、昭和48年頃に書かれた分解の説明書が私の手元にあります。
それと、平成4年末に発行された武道空手攻究の内容を比べてみると、殆ど差が無いことがわ
かります。
分解の解釈ですから、そう簡単に変化するわけがありません。
船越先生らの分解との一致
もし、久保田伝の分解が創作だとしたら、師伝の分解が船越先生らの分解の写真と一致するの
は、なぜでしょうか。
誰にも教わらずに、創作したものが、船越先生始め糸洲一門の古い分解写真と一致するのは、
偶然にしてはできすぎています。
特に、ナイハンチ初段の分解は、教えられなければできないと思います。
その証拠に、船越先生のナイハンチの写真は、最初の著書である沖縄拳法唐手術」(大正11
年)にも掲載されています。
つまり、ナイハンチの分解は、本土に唐手が紹介された年に本に掲載されたているのですが、
その後80数年の間、誰もこの分解に気がついていないのが現実なのです。
型の意味は、師より教えられなければ、それを理解することは不可能であると思います。
船越先生は首里手の型を知らなかったか。
富名腰義珍先生は安里安恒先生に師事されて、首里手(糸洲安恒)の形は習得されておりませ
んでしたので、のちにご子息義豪先生を沖縄へゆかせて、摩文仁賢和のもとで首里手の形を学
ばれました。(攻防拳法空手道入門の後書きより引用)
「後にご子息義豪氏を沖縄へ行かせ」ということは、「義豪氏が上京したあとに沖縄に行かせ」と
いう意味にとれます。もしそうだとするならば、義豪氏が上京したのは17歳の時とされるので、
1906年(明治39年)生まれの義豪氏が上京したのは、大正12年(1923年)ということになります。
そして、摩文仁賢和先生が上阪したのは昭和3年(1928年)39歳の時のことですので、義豪氏が
摩文仁賢和先生に会いに沖縄へ行けるのは、大正12年(1923年)〜昭和3年(1928年)の5年間
に限られます。
知られている事実に昭和9年に、1ヶ月沖縄に帰ったとされていますが、この時期は摩文仁賢和
先生が本土に来た後なので、行き違いとなります。
また、船越先生が上京した大正11年(1922年)に出版された琉球拳法唐手には、15の型(ピンア
ン初段〜五段、ナイハンチ初段、二段、三段、公相君、セーシャン、パッサイ、ワンシュウ、チン
トウ、ジッテ、ジオン)の解説が掲載されています。いわゆる松濤館15の型と言われるものです。
糸洲安恒先生が創作したピンアンを習得していたということは、糸洲先生に習っていたということ
になるのではないでしょうか。本土に来てから学生の間では、「ピンアン先生」とあだ名されてい
たと言われています。
自分の子供を他人の先生に預けることは、どの世界でもあることなので、義豪氏を摩文仁賢和
先生の元へ行かせたから、これをもって船越先生が糸洲の型を知らなかったとするのは無理が
あります。
長男の義英先生(1900年〜1961年)は、幼少の頃、糸洲先生にも習われたことが知られていま
す。
沖縄の空手界の習慣として、複数の師に就くのはよくあることなのは有名な口碑です。
安里安恒先生と糸洲安恒先生は、松村宗棍先生の同門であり、糸洲先生は弟弟子であるの
で、糸洲の型と首里手、安里の型を首里手ではないとするのは、無理があると思われます。
船越先生は、ピンアンを摩文仁先生に習ったのか?
上記の摩文仁賢栄先生の発言から推測が発展したのだと思いますが、なぜか「船越義珍先生
がピンアンを摩文仁賢和先生から習ったのではないか」という疑問があるようです。
常識的に考えると、船越義珍先生(1868年〜1957年)が、21歳年下の摩文仁賢和先生(1889年
〜1952年)にピンアンを習うことは考え難いのではないでしょうか。
摩文仁先生の生まれは、明治22年(1889年)であり、糸洲門下となったのが13歳(1903年)であ
るとすると、糸洲安恒先生が、明治37年(1905年)ピンアンの型を沖縄県立一中師範体育に採
用した時点で、船越先生は36歳なのです。
糸洲先生(1831年〜1915年)はもちろん健在であり、糸洲門下の兄弟子である、屋部憲通先生
(1866年〜1937年)や花城長茂先生(1869年〜1945年)は、船越先生とほぼ同年代なのです。
師や先輩が側にいる以上、21歳下の摩文仁先生に習う必要はないと考えられます。
船越先生は教師であったので、真っ先に習得しなければなかった立場にあったのではないでし
ょうか?
摩文仁賢和先生が、糸洲、東恩納両先生から空手の免許を授かり教えてもよいと言われたの
は、大正4年(1915年)26歳の時であり、自宅で道場を開設したのは大正5年(1916年)27歳の時
です。
大正5年(1916年)頃、泊小学校で船越先生に唐手を習った長嶺将真先生によると、船越先生
は生徒達にナイファンチ(鉄騎)やピンアン(平安)の型を教えていたとされています。
仮に、船越先生が摩文仁先生に習ったとするならば、型は同じでなければなりません。
しかし、型の動作が違うというのは、別の人から習ったとするのが自然ではないでしょうか。
また、本部朝基先生の証言にあるように、糸洲先生の型が変化しているので、習った時期によ
り動作が違っても不思議ではありません。
以上のことから、船越義珍先生がピンアンを摩文仁賢和先生に習うということは、時系列を追っ
ていっても、型の挙動の差異からいっても、そのような事実はなかったという見方が自然な解釈
だと思います。
手の内の絞り
久保田先生に手などを掴まれると、まったく動けなくなることがよくありました。
先生は、「手の内の絞り」という言葉を使って、説明されていました。
先生によれば、「手の内の絞り」とは、「正しい指の使い方であり、指の威力の発現法であり、そ
のための方法として、釵を振り込むことは、『手の内を絞る』有益な訓練になり、指の使い方が自
然にわかってくる効果がある」と言われていました。
先生は、その訓練のために、毎朝、釵を左右100回づつ振るのが日課だったそうです。
一度、先生の釵を振らせていただいたことがありますが、通常の倍の重量があろうかというもの
で、思うように振れなかったことを覚えています。
そういえば、・・・・釵を人にあげて「しまったぁ」
隠されていた空手の片鱗
 平安二段の第一挙動
 平安二段第一挙動の一般的な解釈
 師伝の分解
 船越義珍先生と大塚博紀先生(空手道教範より引用)
 中山正敏先生と金澤弘和先生
(空手道精神と技法より引用)
なぜか師伝の分解と同じ写真が残っています。
沖縄空手セミナー
2007年9月16日(日曜)は、久場先生のセミナーに塾の皆と参加した。
ネットと雑誌で、開催時間が異なったらしく、ネットしか見ていない私は遅刻となってしまった。
3回目となる今回の参加者は、少しは増えたようだ。
また、白帯で参加する人も3分の2くらいである。
もちろん、私も塾の皆と白帯を締めて参加した。
内容は、セイユンチンとセイサンの分解である。
先週と前日の稽古のときに、セミナーの予習をやっていたので、わが塾の皆はスムースにこなし
ているようだ。
セミナーが終わり、懇親会会場へ向かう途中、会場がわからず皆で神田を放浪する。
この辺も、主催者の準備が足りないようだ。
懇親会では、久場先生から沖縄でしか聞けないような話を伺い、勉強になった。
その話の中で久場先生に、本に載せていないある分解を示したところ「なんで桧垣さんがこれを
知っているのか」と驚かれた。
「それを知っているのは、分解をちゃんと教わってる証拠だ。本土でこれができる人がいるとは
思わなかった」といわれた。
感無量である。
私のところでは臨闘型の分解として習うものである。
これを久保田先生に教わったとき、正直納得がいかなかった。
そこで「これは船越先生がやっていた分解ですか」と聞いたところ、「こうやっていた」という返事
が返ってきた。
しかし、仮にそうだったとしても、これを型の分解としていいのかと悩んでいた。
分解の方法として、あまりにも突飛に思えたので、塾でもこれは最近になるまで教えなかった。
しかし、ある程度の段階まで教えた後なら、それを教えても違和感がないようだった。
久場先生からは、「それをいつか公開してみてはどうか」といわれた。
大変、有意義な一日となった。
沖縄取材報告 隠されていた沖縄空手
平成18年6月12日〜14日まで、チャンプの沖縄取材に同行しました。
今回の取材の目的は、「隠されていた沖縄空手」を見聞することでした。
詳細はJKFANに書くので今は控えますが、結論からいうと師伝の分解とほぼ同様のものが沖
縄に伝えられていました。また、「手は教えるな」ということは、徹底していたそうです。
空手、取手、舞方は三位一体として行われ、取手は柔術のようなものであり、返し技も存在しま
す。
見せていただいた分解の技法には、固め技も存在しました。
まったく予備知識がないまま、これらの技法をみると合気道と勘違いすると思います。
型の説明を聞く中でおもしろかったのは、「型に段階がある」ということです。
同じ型でも修行段階によって方法や動作が異なるので、このことを知らなければ、「型が間違っ
ている」あるいは「改変されている」という見方をする人が出てくるでしょう。
分解については、「表の分解、裏の分解」という表現をされていました。
分解は複数の解釈がありますが、「できるか、できないか」という判断基準によって稽古すべきで
あるといわれました。
空手にも受身があります。受身が出来なければ、分解や取手の練習はできません。
その受身の方法は、柔道の受身より、合気道の受身に似ています。
ウェイトトレーニングと古式鍛錬法の違いについても教えていただきました。
率直に申し上げて、沖縄の先生方と話をしていると、師である久保田先生と話しているようでし
た。
また、私の著書についても評価して頂きました。
清万象先生の『一隅を照らす』
以前、このHPおよび著書において、久保田先生が「船越先生宅での夜の稽古」について語った
ことに触れました。
最近になって、同志からその夜の稽古について記述されたものが見つかったと報告があったの
で、以下にその一部を掲載します。
『一隅を照らす』 万象清水敏之の生涯 という昭和59年発行の非売品で、300部ぐらい刷られ、
空道館関係者に配られたという本です。
清水先生は、富山藩伝来の武術、駒川改心流剣術、四心多久間見日流和術、民弥流居合術
等の皆伝者で、その後空手では船越義珍師直門となり、帰郷後、富山・石川県警に逮捕術を指
導したというのがご経歴で、空道館は、清水万象先生の創られた道場です。 松濤館では初の5
段位授与者です
興味深い記述は多々あり、
『突きで反対側の手を引くのは、襟首乃至手を掴んで引き付けるので、2倍の力で突くことにな
る。』
『この際、突きと同じ力で引くことが重要である。』
『型こそが実戦である(意訳)。』
『空手の型は実にうまく構成されていて、一人稽古でも自然に術が養成され、実用化できるよう
にできている(意訳)。』
ご遺稿から、少々拾い書きしてみます。
第一に出てくるのは空手術であり、体系の目録でも第一が空手術とされています。
1.空手術について
・警察界では昭和22年12月6日から実施された逮捕術に当身の法として採用され(後略)
・空手術は(中略)自己の本心仏性を徹見実証せんことを理想とし(中略)その理想たるや実に
雄大高遠であり、術技はまた深遠微妙なものがあるのである。
・空手術の型というのは、相手の攻撃を仮想し、これに対する攻防法の幾通りかを組み合わせ
て(例えて言えば、逮捕術の応用技の何本かを一本の糸で 繋いだようなもの)一つの型を構成
したもので、(中略)この型はちょうど数珠の108つの一つ一つの珠を一本の糸で繋いで一連の
輪にしたようなものであっ て、空手術ではこれを不文の経典と称して反復鍛錬するのである。
・空手術即武芸十八般であり、古流剣術(新陰流)の無刀取りや晩年の宮本武蔵の境地がそれ
である。(意訳)
技術の断片も・・・以下「型としての特徴」という項目です。
・空手術は公正平等にして普遍性があり、その上必勝法を教えてあるという具体例を(中略)空
手術を修行している脆弱な婦人が(中略)暴漢に襲われた場合、この時婦人は正当防衛として
平素修行している『空手術の型の内にある術』を、無意識に用いて機を失せず指刀(指の先端
を刀の切先のように使用する もの)で相手の目を突き、ひるむ虚に乗じて股間の急所を蹴上げ
たとすればどうであろう。
・空手術はこのように非力なものでも、習熟しさえすれば、いかなる剛力の巨大漢でも倒しうる攻
防法を、あらゆる場合を仮想して数多く『型の内に織り込んであって』、しかも貴賎貧富を問わ
ず、老若男女に関わらず、誰にでも習得できるよう工夫を凝らしてあるものである。以上のような
空手術は『型に依る が故に』術技の精妙を体得することができ、これに加えて公正、平等でしか
も普遍性があって至極民主主義的なものであることを、相当疑い深い人にでもほぼ了 解できた
ことと思う。
久保田先生の「庶民のための護身武芸」という概念と同じだと感じました。また、『型に術技が織
り込まれている』『習熟すれば実用化できる』という 意味の表現を逆に言えば、『型の行じ方が足
りなければ、型はスフィンクスのように黙してそびえたまま、その本性を現さないであろう』という
久保田先生の言葉と同じだと思います。
・・・久保田先生のほうが全般に皮肉(以下自粛
清水家は代々、富山藩士で武門の家柄であり、万象師が最初に学んだ武術は家伝の吉田流弓
術で、師は父上であった由です。 ある追想では、この弓術が万象流全てのバックボーンとなった
のではないかと言う証言があります。
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